山に暮らせば

児玉さんが「母の丘」と呼んで整備していた畑。電動車で畑の中を動き、
好きな山野草をたくさん植えて、手入れしていた。花を相手にしたときの
児玉さんはいつも嬉しそうだった

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2007.07.11
  一昨日の朝、芸北・八幡の児玉集さんが98歳で亡くなられた。電話で訃報を知り、愕然とした。
 新中国山地の取材を始めたころか、その少し前だったと思うのだが、児玉さんにお会いした。名刺を渡すと、名刺と顔を交互に見ながら「あんた、こういっつあんの息子か?」と聞かれた。「そうです。耕一の息子です」と答えると「そうか耕一さんの息子か」と繰り返した。親父も山が好きだったので芸北にたびたび来ていた。親父の縁で可愛がられ、花の自生地にもたくさん案内してもらった。
 中でも忘れられないのは「キレンゲショウマ」だ。自生地を秘密にする、新聞に場所は書かないという約束でキレンゲショウマの咲いている谷に連れて行ってもらった。そのとき、児玉さんが谷底に転落した。大声で名を呼んで捜しても川の流れ、森の木々のざわめきに震える声はかき消され、手の施しようもなく、じっとして不安と闘った。救助をお願いしに下山しなければならないと思い始めたとき、頭にタオルを巻いたいつものスタイルで、笹の中を上がってこられた。「落ちちゃった」と一言。以来何度か一緒にキレンゲショウマを見に行った。
 ある年、人にはいうなよと言いつつ、児玉さんは花の好きな人を数人つれてきた。道中、倒木の上にマムシがいた。児玉さんは持っていた鎌で一撃、「このマムシは持って帰ろう」といって白いナイロン袋に入れた。谷に下りるのに邪魔になるからと木にかけ、帰りに持って帰る予定だった。ところが、木にかけていたはずのナイロン袋が消えていた。獣か鳥に横取りされたらしい。児玉さんは悔しそうに「あのマムシをレンジでチンして、粉にして食べれば元気が出るはずだったのに」と言った。嘘に違いないが、その時82歳、すこぶる元気だったので、「本当かも知れない」とみんなで笑った。
 元気といっても児玉さんが90歳近くなるとお誘いも出来ず、一緒に行く機会はなくなった。しかし、夏が来るとキレンゲショウマの谷に行き、児玉さんに「今年も咲いていました」と報告するのが楽しみだった。最近は耳がすこし悪くなられて、報告は筆談だったが、いつも嬉しそうに「うちは、もう行かれんけ、見てきたら教えて」と毎年言われた。
 昨年、新聞に連載中の企画「山に暮らせば」でキレンゲショウマと児玉さんの思い出を載せた。児玉さんとの約束で「自生地は秘密」。それを公にするつもりはなかったが、ルートが出来、崖には下りるためのロープが用意されて足跡も多くあった。自生地には立入禁止のロープが張られ保護されていた。ふとこれが秘密の場所なのかという疑問がわいた。
 公開か非公開に触れたときブログが炎上するのではないかと思われるほどの厳しい指摘を受けた。
 児玉さんが亡くなられ、ブログのことも思い出されてキレンゲショウマに対する気持ちが萎えていくのを感じている。花が咲いても、児玉さんには伝えられない。ただ、これから先、夏になりキレンゲショウマが咲くころになると児玉さんを思い出すだろう。同時に私が自生地に行くこともなくなるだろう。私の中にあったキレンゲショウマの物語は「完」なのだ。

by konno_noboru | 2007-07-11 22:22 | Comments(10)

Commented by ocarina21 at 2007-07-11 23:51 x
紺野先生、寂しくなられましたね。
10日の中国新聞朝刊で“八幡高原愛した「植物学者」”として児玉集氏のお名前を拝見したとき、昨年8月のキレンゲショウマ(朝刊の「山に暮らせば」)を思い出しました。それから「西中国山地 ブナ林の四季」(1992年9月中国新聞社発行 撮影ー紺野昇記者)のキレンゲショウマのページも・・・。直接お目にかかったことはありませんが、先生にとっても八幡にとっても、とても大切な方だったのですね。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
Commented by 初ちゃん at 2007-07-12 00:48 x
私も朝刊を見て昨年の「キレンゲショウマ」の事を思い出し先生は落ち込んでおられる(失礼)と思っていました。
先生のお父様はやはり耕一様でしたか。私の友人が当時の「山の講座」でお会いして以来芸北の山、植物、動物、土について教えていただいた事忘れられないと聞きました。今でも彼女は遠く萩から時折芸北に通ってくるそうです。お父様も当時、児玉集氏と共に芸北の自然を巡っていたのでしょうね。
お会いした事はありませんが児玉集さまのご冥福をお祈りします
Commented by さくら・ふみ at 2007-07-12 08:33 x
「あのスズサイコもブログに載せて下さい」と、お願いするつもりでいました。
10日の児玉さんの記事、切り抜いて机の上に置いています。
「わたしのキレンゲショウマは、“完”なのだ」-胸が絞りあげらるようです。
Commented by koike at 2007-07-12 19:49 x
児玉集さまのご冥福をお祈りいたします。
さくら・ふみさんと同じで「私の中にあったキレンゲショウマの物語は「完」
なのだ。胸が苦しくなりました。
Commented by 一ファン at 2007-07-12 19:50 x
撮影された方のあたたかいまなざしの見えるような、よい写真ですね。
2つのエピソードを、しみじみと読ませていただきました。
児玉集様のご冥福をお祈りいたします。
Commented by koike at 2007-07-13 09:05 x
konnoさん、児玉さんは、八幡高原に吹く千の風になって、これからも
ず~とkonnoさんの事、八幡高原の植物も、そしてキレンゲショウマも
やさしく見守ってくれるのではないでしょうか...。今朝、外の雨を見ていてふとこんな事を思ったので...。
Commented by maskal at 2007-07-13 23:14 x
八幡ファンの一人で、中国新聞で貴兄のブログの紹介を見て以来、美しい写真を楽しみに拝見しています。
私と児玉さんとの出会いは20数年前、冬の苅尾山にクロスカントリースキーで登ろうとよもぎ旅館に泊まっていたとき、吹雪で山に入ることもできず退屈していたら、宿の女将さんから小学校前の集さんのところへ行ってきてはどうかと紹介されてからでした。
突然の訪問にもかかわらず、快く迎えていただき、牧野博士をご案内した話や八幡の自然の話をうかがいました。その後も何度か野外でお会いする機会があり、その都度、植物や動物のことを教えていただきました。
ご冥福をお祈りいたします。
Commented by 大野 at 2007-07-15 01:03 x
私もお電話で連絡を頂いた時には愕然としました。
事故死であった事は更に残念です。
葬儀で最後のお別れをしてきました。カキツバタ祭りに行けなかった事が悔やまれます。
ご冥福をお祈りしています。
Commented by flora at 2007-07-16 16:19 x
こんにちは。児玉集さんの記事を読んで昨年のキレンゲショウマの事が鮮明に思い出されました。どうなることかとハラハラしながらブログを読んでいました。児玉さんの訃報を新聞で読み、とても残念でしようがありませんでした。ただ、ひとつだけ救われたのは昨年キレンゲショウマの記事を「山に暮らせば」の記事として新聞に掲載されてよかったなあと思いました。色々な意見がありましたが、児玉さんとの暖かい交流が感じられ、気持ちが和んだなあとふっと思い出しました。「私の中にあったキレンゲショウマの物語は「完」なのだ」というフレーズはとても重たくずっしりと心に響きました。児玉さんは、ご自身の一番好きだった場所で亡くなられたのだと思います。これから自由にキレンゲショウマの谷にも行かれることでしょう。写真の中の児玉さんは生き生きとした良い表情をされていますね。心からご冥福をお祈りいたします。

Commented by 山彦 at 2007-07-18 21:14 x
児玉さんの記事を読んでとても残念に思う一人です。
あれは10年以上前になるかと思います。臥竜山ふもとの湿地帯に
サギソウの写真を撮りに行った時に、一人でロープを張っておられ
たのが児玉さんでした。
その時、挨拶と花の保護について立ち話をしたことがありました。
自分がやっていることは気休めだろうが・・・と言われていました。
「写真を撮っても、花を採って帰らないことが一番ですね」と言うと、
児玉さんは嬉しそうな顔をされていました。
今でもあの時の児玉さんの姿が想いだされます。
児玉さんの意思を引き継いでいかれる方が、紺野さんや若い人にも
引き継がれることを願っています。